今、日本に帰ってきています。
2週間、しかも年末年始なので、家族や親戚に会って少しのんびりとお正月をすごせればいいかなと思っていましたが、忘年会などの集まりで古くからの友人達にも逢うことができました。
ここが戻ってくる場所なのに、まだ完全に帰ってきたわけではなく、どこかのんびりしきれないところがあり、一時帰国はいつもまるで夢をみているような不思議な感じがします。
2週間、しかも年末年始なので、家族や親戚に会って少しのんびりとお正月をすごせればいいかなと思っていましたが、忘年会などの集まりで古くからの友人達にも逢うことができました。
2008年12月29日月曜日
2008年12月1日月曜日
「待つ」ということ
では、「待つ」ことを考えて見ます。
本当に「待つ」ということを私たち日本人は日頃ほとんどしていないのではと思います。
銀行の受付もいまや携帯で混雑具合を確認できます。真夜中に電球がきれればコンビにで手に入ります。アトラクションに列ができればファストパスが考案されます。高速にはECTがあります。
便利で快適なサービスや、仕事の効率化、システム化により、私たちは「待つ」という場面はことをずいぶんしなくてすむようになりました。
「待つ」ということは多くの場合「無駄な時間」であり、できる限り待ち時間を減らすことがよいこと、と普段私たちは思っています。
とくにフランスに来て日本は待つことを極力排除したい傾向があることを強く感じます。
そしてそれに慣れてしまった今、「すべてのことは効率化、簡略化できる。するべきだ」というような思考の傾向がないでしょうか?
本当にすべての事柄は効率化、簡略化できるのでしょうか?
果たしてそれはすべての場合において、私たちにとって本当の意味で
良いことなのでしょうか?
次に、子育てにおいての「待つ」ことについて考えて見ます。
保育の世界において「待つ」ということは大変重要なキーワードです。
何が大切って「子どもの育ち」を待つ大人の姿勢がとても重要と思っています。
たとえば、字が読めない子どもに、早く文字を覚えさせようとするとどうなるでしょう。
子どもはスポンジのように何でも吸収しますから、子どもの本質がそれを望んでいないとしても、覚えさせればどんどん吸収し、自分で本を読み始める時期が早まります。
けれども字の読めない時期というのも大変意味のある時期です。文字を読める前と後では世界のありかたがまったく変わってしまうと思うのです。一度字を読むことを覚えたらもう知らない時期には2度と戻ることはできません。その時々にしか経験できないことをたっぷり経験して次のステージに行くことが必要です。
子どもが読むことを覚えるのに適した時期に育つまで、待つことが大事です。
「すべてのことは効率化、簡略化できる。するべきだ。」というような思考は単に
多くの国で採用されている資本主義をうまく保っていくために必要な考え方で、
いかに効率よく仕事をして稼ぐか、というようなことにつながる考え方ではないでしょうか。経済を育てることに掛けては理にかなった考えかたかもしれません。
しかし、こと人間を育てることに関してはこれはまったく通用しません。
子育ては簡略化などできません。忍耐強く待つということが必要です。
これが、今、難しいのです。でも、子育てにかんしては、むしろ回り道の多いほうが育てる側にとっても実り多いものになるのです。
子どもは手塩にかけて育てるものです。
日本で購読していた育児関係の小冊子に書かれていたコラムを思い出します。
そこにはこんなことが書かれていました。
子どもが親を困らせる量は生涯を通して一定である。という法則です。
簡単に言ってしまうと、幼いころの子育てで「楽」をする、つまり簡略化、効率化するとその「つけ」は後になってやってくる、ということです。
詳しくは、
次のエントリーで取り上げます。
写真:アトリエ近くのモンマルトル墓地の通り
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