2010年1月19日火曜日
内田樹の学力低下問題への批判
必要があって、内田樹の本、とくに構造主義についてを読んでいます。記事についていろいろ批判を書きましたがこの方の文章力には目をみはるものがあり、難解な構造主義とその流れを理解できたのもこの方の著書のおかげです。あまり盲目にならないように、いろいろなトピックで彼の考えをしろうとこの方のブログを読み返していて、意外にも「?」な記事があったので読んで感じたことを書きとめておきます。
以下、主にこの方のブログを読み返していて私が感じたこの方の言説に見られる日本の「甘えの構造」について個人的な教育問題への憂いを発信してます。
まず時間があるかたはここで記事を読むとよくわかります。
内田樹の研究室の記事「創造的労働者の悲哀」
四月からの授業とあまりにレベル差があるので、入学前の三月から補習を始めている大学もある。「新入生の学力」が低いのはどう考えても「大学の責任」ではない。「だったらそんな学力の低い学生を大学に入れるな」というご意見もあろうかと思う。なるほど。だが、その「低い学力」の子どもたちが、それ以上の教育機会を与えられぬまま社会に送り出されることで、日本社会がどのような利益を得ることになるのか、まずそれをご説明願いたい。話はそのあとだ。
そう言われても、わたしは「だったら入れるな」と思います。なるほどの一言で終わっているのには少々驚きます。「学力の低い学生でもいれてくれる」とみんなが思っているうちは変わらないと思います。だれがそういう意識を作っているのかといったら、学力の低い学生でも入れてあげる大学側の姿勢もその理由の一つでしょう。だから大学にも責任はあります。
また、大学にたどりつくまでの間にしっかり勉強するシステムが機能していないことも理由でしょう。そこをしっかり機能させるように仕組みを変えていくのが根本の解決の方向です。内田さんは大学人だし、大学経営は今ものすごく大変なので、大学に矯正機能がしっかりあることを公言し若者でも大学に入れる意味をつくるのも仕事の一つなのかもしれませんが、もっと大きく考えれば大学によい学生がたくさんくるシステムづくりに貢献するほうが結局は教師の負担だって減るし、大学までしっかり勉強した人をよりよく教育して世に送り出すことにもなるでしょう。
何かを根本的に解決しようとするときには一回膿を出しきることは必要です。一時的に低学力の人が社会に送り込まれることでのなにかのマイナスが社会おこるのはある意味不可避なことです。
フランス人の思想家を師匠と仰いでいる方でも教育制度について語るときにまったく日本的な思考に終始しているのはちょっと残念に思いました。彼の理論では、悪循環が進行するだけじゃないかと思います。つまりたくさんの大学、少ない子どもという今後の人口構成から考えられる状況で学生かくとくのために大学はどんなにできない学生でも受け入れる→教師はどんどん仕事が増える→効果は???という構図です。
このなあなあな構図になることがわかっていながら「でもしょうがないよね」としているところに「甘え」を感じるのは私だけでしょうか?「甘えの構造」だったかと思いますが、何かの本でもこうした「日本の甘え」が言及されています。
例えばフランスでは幼稚園から落第制度があり、どうしようもないくらいできない人は上にあがれません。できるようになれば上に上がれる、ということなら、少なくとも「やればできるけれどやらなくてもなんとかなるから勉強しない」的な人は少しは腰を入れて勉強するんじゃないかと思いますがどうでしょう。
「大学の先生ができない学生のために 中、高校の補修から準備して提供してあげている、先生の仕事は前の2倍くらいに増えた」とあります。まったくご苦労なことです。けれど、それはむしろ大学改革でむやみやたらと大学を作ってしまった経緯のほうに批判の目を向けるべきで、実際そういった対策が学力向上に通じているわけではなく結局学力の低いまま卒業していく人だって結構いるはずです。大学の先生だってすべての低学力新入生を社会に送り出せる状態に育て上げられるわけじゃないでしょう。もともと大学はだれかによって育てられる場なのでしょうか?大学はある程度の知識をもとに何かを考えられるような人が自分で学んでいくところではないのでしょうか?
このようにして、「自分で考えなくても上の人がよい策を講じて手を差し伸べてくれるからなんとかなる」と考える受動的な人間が生み出されているとさえ思います。
それに、学力低下ばかりでてきますが根本的な問題なわけではなく、むしろ、学生の自主性の欠落、自己教育への欲望の欠如がなにより今の日本の教育の問題です。
こうした受身の姿勢でいても生きていけるシステムをつくってしまっていることに社会の構成員の一人ひとりが気が付かず、学力低下ばかりに目を向けていたずらなゆとり教育批判にとどまっていることを憂います。
資本主義社会はさすがに認めないと
大学生の学力低下の原因は、「日本の子どもたちの学力が低下することからは(少なくとも私は)利益が得られる」と考えている日本人が社会の相当数を占めているということにある。市場もメディアも親たちもそして子どもたち自身も、日本人の学力が下がることから自分だけは利益をかすめ取ることができると信じている。
これも少し言い換えが必要です。日本は資本主義の国です。企業は利益が目的で社会貢献は目的ではありません。そこではお金がすべてです。だから、故意に学力を下げて儲けようとしているわけでもなくただ、受験生のためをおもって売り出し日を考慮する必要がない、ということです。
ゲームソフト会社だったら「当社のゲームを息抜きのために使用して、もっと集中して受験勉強ができるということも考えられます。使い方までは責任おえません。感知しません。」でOKです。
資本主義すべてを敵にまわし革命を起こす覚悟なら上記のような企業倫理批判もありですが、すぐになんとかできるものではありません。この資本主義社会の中で「ゲーム機があっても自分でやらなければならないことを優先し、効果的にゲームを利用することができるような子ども」に育てるのはどうすべきかを考えるほうがあきらかに建設的で意味があるように思います。
問題のすり替えをしてはいけない
繰り返し言うように、別に私は誰かに学力低下の責めをおしつける気はない。子どもたちの学力低下について「誰の責任だ」と凄んでみせる資格のある人間は日本には一人もいない。私たちはこの点については全員同罪である。それゆえ、まず自分自身がそれと知らずにどのように「子どもたちの学力低下」に加担しているのか、その自己点検から始める他ないだろうと思う。「根本的な議論」はそこからしか始まらない。
最近は大衆向けにデフォルメされたTV番組などでも「ゆとり教育による学力低下」がテーマになるなど、学力低下はマスコミでもよく耳にするところです。しかし、日本の教育問題で一番考えるべき深刻な問題は「生きる力の欠如」「主体性の欠如や自分で考える力の低下」です。学力低下が問題だけれど、大学はそれについては責任ありません、と言っているのに、こうまとめるのは矛盾しています。教育問題の根本はただ数字的に学力が上がったという統計が出れば解決するわけでは決してありません。
また、教養人で大学教授でもあり「根本的な議論」をしようと言っている人でさえ、上記のとおり大学の責任逃れ、根本問題の誤認をしているのに気づいていないのですから、本当に私たちは気をつけなければなりません。
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2 件のコメント:
同感です。
内田樹の「下流志向」という本は読んだ事がありますが、個人的には納得のいかない本でした。
hottokoさんが言われているように、大学は学ぶところです。
私は、高校まで行ったら、いったん社会に出て仕事をして、何か学びを深めたかったら改めて大学に行く様にする方が良いような気がします。
今の大学は、次の会社の就職のための窓口にしかなっておらず、就職斡旋所と化しています。
本来の大学は、研究機関なので、学びを追及するための場所でなければいけないんじゃないかと思います。
もっと言えば、勉強なんかそこそこできていればいいし、それよりも「人生を力強く歩んでいく力」の方が「学力」よりも大切じゃないんでしょうかね。
kazoo320
大学の役割・・・考えてしまいますね。この方の明晰な文章と幅広い知識は尊敬しているので、この記事をみて意外だったのでつい辛口で書いてしまいました。
最近はイリイチの「脱学校の社会」を読んでとても面白かったです。
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