2011年7月29日金曜日

オスロの事件と死刑制度

先のオスロの事件、フランスでは事件当日直後のショッキングな映像とともに大きく取り上げられました。現場で亡くなった方、必至に逃げた若者たち、どんなに怖かったか。まるで現場に居合わせたようなリアルな恐怖を肌で感じて、怖い思いを下方やなくなった方のこと、ご家族のことをおもうと悲しくて涙があふれました。今も命からがら逃げきった女の子の叫び声が胸に突き刺さったままです。

世界には理不尽なことばかりです。どうしてこんなことが起こるのか。

どうやって受け止めていこうか。どうやって被害者たちは前に進めばいいのか。

今、裁判にむけて精神鑑定などが始まっている様子ですが、この犯人にオスロがどのような回答をだすのかが世界から注目されています。

なぜなら、ノルウェーには死刑制度がなく、76人無差別殺人の犯人にも極刑は適応されないからです。

日本ではこの死刑制度のないノルウェーのシステムを激しく非難するような向きが一部にみられました。日本は死刑の支持者が多いから一部でもないのかもしれません。遠い北の国での被害者に思いを馳せて犯人を憎らしくおもう日本人はたしかにセンシティブでな人情味にあふれているとは思います。でも、私は死刑制度には反対です。理由は色々ですが、一つには罪を犯した人の体が消滅しても、同じようなことが2度とおきないとは限らないからです。実際犯人は自分は途中で射殺されるだとうと思っていたといいます。(フランスも死刑制度は今はありません。しばしば死刑は野蛮だと考えられます。日本は例外的に先進国のなかで死刑制度の支持率が高い国です。)

犯人は自国がイスラムの影響を受けることを極端に嫌う政治の嗜好を持つ者で、国を守る為にやったというようなことも言っているようです。精神状態にも問題がありそうなので何が本当の理由かはわかりませんが、死刑執行という形で、やりきれない憎悪をある程度満たすというやり方は結局、一つの正義を振りかざして人を殺めることと変わりません。まったく別の価値観に基づくものであれ、そういった憎悪を持つこと自体を肯定するようなやりかた、憎悪の沈め方には個人的にはまったく賛成しません。世界の民族や宗教対立は結局「やったらやり返せ」と「自分は絶対に正しい」の2つで泥沼化していませんか?

世界には白と黒しかなく、悪者には人権など考えなくて良いという考えにはなじまず「それ以外の考え方がある」と主張した国の一つがノルウェーでした。「ノーベル平和賞の国」として知られるオルタナティブ志向の国です。オスロ市長はこの犯人に「民主的で寛容な罰」を与えると言っています。

どんな対応となるのかはまだ知るところではありませんが、市長も 寛容=優しい、甘やかしたという意味では使っていないはずです。死刑復活!といいたくなったかもしれません。自分の市民をあのように失ったのですから、むしろ他国の私達よりも、深い悲しみと怒りを覚えたはずです。人間ですからそうした感情をもつこと自体は悪いことではないとおもいます。

怒り、悲しみ、絶望、復讐、憎しみ…。オスロは今こうした負の感情を必至でこらえているのは、それがひいては犯人が思うようなやりかたでは平和など実現しえない、ということを自ら証明してみせることになるからで、かなり無理もして、理想の国のありかたを曲げないように泣きっ面で頑張っているんだとおもいます。過激な主張ではなく寛容を、という路線のこの国の主張がこのように注目されるのも想像だにしないものでしたが、世界が寛容で満たされ、平和に一歩でも近づくように祈りたいとおもいます。

亡くなった方のご冥福と心身に抱えきれないほどの大きな傷を負ったたくさんの若者、その家族、残された周囲の人たちに少しでも癒しがありますように。




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